今昔物語
Episode.1
紫雲ゴルフ倶楽部 
むかし今
紫雲ゴルフ倶楽部50周年記念誌(2015年)より抜粋
紫雲ゴルフ倶楽部(新発田市元郷)が開場50周年を迎えた。
この間、男女とも日本最高峰の最も伝統と格式を誇る日本プロゴルフ選手権や日本女子オープンゴルフ選手権などのメジャー競技会の 舞台にもなるなど、「新潟に紫雲あり」と全国に知られることとなった。
誕生から半世紀。創業にまつわる話を交えながら歩んできた道を振り返ってみた。
この地には
ゴルフ場が最適だ

「この砂丘地は素晴らしい自然環境に恵まれている。ゴルフ場開発計画を立てたら面白い」。1961(昭和36)年10月、同ゴルフ場の初代社長 を務めた葉山健二郎(故人)が社用でこの一帯を視察で訪れた際に漏らした一言が発端だった。当時、葉山は日本鉱業㈱のOBであり、㈱丸 運の社長で、専務の斎藤憲策(故人・後に同ゴルフ場取締役支配人)の案内で斎藤の出身地に近い加治川河畔で休憩した折である。

帰京する夜行列車の中でも葉山の賛辞は続き、斎藤に「ゴルフ場にしたい。キミも応援してくれ」と切り出した。斎藤はその時のことを次のよ うに回想している。「加治川はかつて遠足で訪れて、その美しさに魅了された所。この郷土の誇りを見てもらいたいと案内したもので、突然のゴ ルフ場話には面食らった。それに当時私はゴルフに関しては全く無縁であり、18ホールを造るのに2億円ほどかかると聞いて、何を寝言みたい なことを言っているのかと思った」と。しかし葉山の動きは早かった。数日後、斎藤に「ゴルフ場予定地を選定してすぐに土地買収に取り掛かる ように」と、まさに青天のへきれきのような命令が下されたと言う。

加治川は磐梯朝日国立公園の飯豊(いいで)山系が源で、分水路完成を祝い1914(大正3)年に桜の苗が「長堤10里(40㌔)」に植えられ、 6千本と言われた桜並木は世界一とも称された名所だ。残念ながら桜並木は1966(昭和41)、67(同42)年の連続大水害で堤防が決壊して 伐採された。しかしその後、自治体や加治川を愛する地元住民らの熱意で桜の植樹や育成が再開され、往時の姿が復元されつつある。

会社発足、重なる試練

ともかく斎藤は動き出す。葉山を初代社長にして、ゴルフ場開発が目的の東新起業㈱を1962(昭和37)年3月に設立。同時に地元の紫雲寺町(現在は新発田市に合併)の町長にゴルフ場構想を話して土地入手などの協力要請をした。すると、驚きながらも町の発展に大いに役立つと対策本部を設置してくれた。しかし、当時は日本経済が不況時代に突入したころで、乗り気だった親会社の協力も期待できず、資金調達に苦悩する日が続いていた。

そんな折に救世主が現れる。当時の新潟相互銀行(後の新潟中央銀行)社長・大森健治(故人)さらには、新潟経済界の名だたる重鎮が全面協力を約束、地元経済人とのつながりを作るなど物心両面での援助をしてくれ、1964(昭和39)年4月に待望の第1回会員募集開始にこぎつけた。

ところがまたも試練が待ち構えていた。同年6月16日、マグニチュード7.5の新潟地震が県都新潟市を中心に襲い、地元経済に大打撃を与えた。不景気の中でようやく会員募集にたどり着いたゴルフ場計画に、地震が追い打ちをかけたのだ。

だが、相次ぐ苦難の日々に悩ませられながらも、一方で名門・霞ヶ関カンツリー倶楽部(埼玉)の創設や多くのゴルフ場に寄与した藤田欽哉設計によるコース工事は順調に進み、1965(同40)年12月に9ホール、1967(同42)年3月には18ホールがオープンした。

生みの苦しみは存分に体験したが、オープン後はゴルフブームにも後押しされて発展の歩みをたどった。1968(同43)年に日本ゴルフ協会、関東ゴルフ連盟に加入してコースレートを取得。また倶楽部の水準を高めるために規約改正を行い、さらに9ホール増設計画を打ち出し、1970(同45)年4月に27ホールをオープンさせた。

「新潟に紫雲あり」とその名が全国に広まったのは1983(同58)年7月の「第 51回日本プロゴルフ選手権大会」開催であった。総力を挙げて誘致した同大会は日本海側で初開催であり、144人のトッププロが挑んで盛況だった。最終日の雨中戦を制して優勝したのは中島常幸。2位タイに青木功、羽川豊が並び、4日間の大会は終わった。来場者は計10,683人、テレビ放映も最終日がニールセン調査で11.3%と当時の最高視聴率を上げたのだ。

1995(平成7)年に開場30周年を迎え、コースの拡張や改修工事が完了して36ホールがグランドオープン。2つのフルコースの名前が「加治川」と「飯豊」と命名された。伝統的・オーソドックスな「加治川」、アメリカンスタイルのウエストエリアなど新しい流れを取り入れた近代的な「飯豊」。全く趣が異なる2つのコースの誕生は、紫雲ゴルフ倶楽部が新たな創業期を迎えた証しともいえた。

日本女子オープンを誘致

新会社への移行を経て倶楽部会員の結束は以前に増して固まり、役員を中心に新たな目標を掲げて動き出した。日本オープンゴルフ誘致など、最高レベルのゴルフプレーで感動を与え、同時に「自然との共生」に尽力するゴルフ場として新生「紫雲」を広く再認識してもらう願いからである。

待望の「第41回日本女子オープンゴルフ選手権競技」は2008(同20)年10月2日から5日まで加治川コースで開催された。新潟出身の若林舞衣子が予選上位で盛り上げ、優勝は最終ホールでバーディーを決めて逆転した李知姫、2位タイに宮里藍、リ・エスドが並んだ。最終日は9千人を超すなど期間中の入場者は23,873人。紫雲倶楽部メンバーがボランティアで活躍し、トッププロを苦しめた加治川コースは難易度の高い名コースとして全国にアピールし、大成功で終わった。


愛され、
選ばれるゴルフ場を・・・

次なる課題として「飯豊コース」の改造に着手した。4年間に渡った改修により、コースは一新。「自然や環境を守りプレーヤーに楽しんでもらうことが重要課題だ」と、安心、安全なゴルフ場を目指して日々見直しを進めている。

開場50周年の記念事業として2015(平成27)年3月から加治川コースにも最新鋭の乗用カートが導入され、さらに、全ての乗用カートに最新鋭のコースナビゲーションシステムも搭載した。

「愛され、選ばれるゴルフ場」を目指す「紫雲」の取り組みは休むことなく、これからも続いていく。 (文中敬称略)