ここでは、ゴルフジャーナリスト西澤忠の目を通して設計家藤田欽哉の人生観とコースの印象を洒脱な文章で振り返ってみよう。
藤田欽哉の素顔
はるか沖に佐渡島を臨む新潟・新発田市(旧紫雲寺町)の赤松林に広がる紫雲GCは昭和40年(1965)に9ホールが、同42年(1967)に18ホールが完成したもので、およそ半世紀の歴史を刻んでいる。海までは2㌔ほど離れるが、その昔は鮭の遡上も見られたという桜の名所・加治川にも沿うので、シーサイドでもありリバーサイドでもある美しき林間コース。コース設計は大正から昭和にかけて日本のゴルフ草創期にトップ・アマチュアだった藤田欽哉である。
藤田欽哉(1889~1970)といえば、日本の名門、霞ヶ関CCの生みの親。昭和初期、東京GC駒沢コースが埼玉県に新天地をもとめてコース移転を考慮中、入間郡霞ヶ関村の大地主、発智庄平の私有地16万坪を藤田が提案したのだが、交通不便の理由で朝霞に決まってしまった。そこで、藤田が中心となり霞ヶ関CCを設立、赤星四郎、石井光次郎(元衆議院議長、JGA会長)、鹿島精一(鹿島建設)などの協力を得て、東西36ホールを設計した。この造成に助手として働いたのが井上誠一で、「当時若かりし井上君は、霞ヶ関常住の会員として入会、東コースの改造と西コースの新設誕生につき、現場監督の立場で、完全に助産婦の役を果たして呉れた」(霞ヶ関25年史より)と藤田自身が感謝している。このいわば藤田・井上コンビで生まれたコース完成後、藤田は、キャプテン、理事長の役職に就くのだが、それは米国留学、商社マン時代に覚えたゴルフの腕前が確かで、ゴルフそのものへの深い知識と見識があったからだ。

当時の仲間が描いたポンチ絵がある。やや禿げ上がる丸顔にチョビヒゲ、上背より横幅のある体躯、ゆったりとしたプレーぶりをユーモアまじりに描いた似顔絵に“北極の熊”という綽名が付された。「創立から今日までキャプテンを免ぜられない人、自分のビジネスよりも倶楽部の仕事に没頭させられる人・・・」との寸評。親友のひとり、石井光次郎も「自己を忘れ、家族を忘れ、其の事業を忘れて渾身コース三昧(設立と運営)に没頭し、之を一言で申せば霞ヶ関コースは人間藤田の化身である」(霞ヶ関25年史、昭和29年刊より)と随筆に書いた。ここまで寝食を忘れてコース運営に没頭した甲斐あって、霞ヶ関CCは日本の名門に育った。当然なことにその藤田にコース設計の依頼が集中するところから、設計家への道が拓かれるわけだ。


この時代、赤星兄弟、大谷光明などのように、選手権保持者の名声から設計家になるのが常道とすれば、藤田の場合はちょっと違う。名門・霞ヶ関CCの創設者で犠牲的精神を発揮してコース運営に奔走した功績からだった。もうひとつ、彼には弟子筋に当る井上誠一という設計家志望の若者がいた。霞ヶ関の会員が中心になって栃木県に那須GCのコースを造る場合でも、藤田は井上に図面を描き、造成の監督を任せ、自分は監修者的な役割を果たした。
名匠・井上の名を天下に響かせた出世作コース、大洗GC(昭和28年開場)を設計する時、井上は図面を藤田に見せる。すると「せっかくのシーサイド・コースだから、もっと海に近い場所にグリーンを置くべきだ」との意見から、16番パー3だけは海に向かって打つホールに仕上がったというエピソードもある。しかし、井上が立派に設計家としてひとり立ちした後は、藤田も各地にコースを単独で設計する。年代順に挙げると、千葉CC野田、伊豆国際CC,東松山CC、習志野CC、静岡CC島田、千曲高原CCなどだが、それぞれ日本の庭園風林間コースで、奇をてらわないオーソドックスなレイアウトが特徴だ。
忘れてはならない藤田の設計上の美学は英国人コース設計家、C・H・アリソンの影響で培われた。東京GC朝霞の設計に招聘されたアリソンは霞ヶ関・東の改造案を提出、それを元に藤田・井上が改造したからである。「本当にコースはこういう風にテクニカルにするものだという指針はキャプテン・アリソンに依って与えられた」(霞ヶ関25年史)と述べている。しかし、「日本の地形、風致、四周の状況というようなものを無視して真のコースは出来ません」と言うから、近代的設計術をアリソンに学びはしたが、藤田には彼なりの日本人の美学をコースに採り入れる方向に邁進したと言うべきだろう。
彼の晩年の作、78歳の時に完成を見た紫雲GC加治川コースも、赤松林を天然のハザードに見立てた立体的な戦略性が特徴のコースだが、どこか日本人の美意識を刺激する構成になっている。海の代わりに加治川に沿うグリーンが3ホール(6番、16番、14番)あり、右ドッグレッグ・ホールが18ホール中6ホールもある設定は「初心者のスライス打ちゴルファーにも攻めやすい」という藤田の優しさの表れではないだろうか?
このコースの完成後、昭和45年(1970)4月12日、藤田は霞ヶ関CCの役員会で、さらなる東コース改造案を説明中に、心筋梗塞のため81歳で急死する。まさに人生をゴルフに捧げ尽くした明治男の心意気であろう。
時を経て、平成20年(2008)には紫雲GCで日本女子オープンゴルフ選手権(加治川コースを使用)が開催され、新潟に“紫雲あり”と全国に印象づけることになるのである。また、平成27年(2015)12月に開場50年をむかえる、紫雲GCはアメリカンタイプの飯豊コースと共に、さらなる挑戦意欲を掻き立てる全36ホールズのゴルフ場としてこれからも成長していくことだろう。


1941年 横浜市生まれ 早稲田大学卒業
1965年 株式会社ゴルフダイジェスト社入社
週刊ゴルフダイジェスト、月刊ゴルフダイジェスト他 編集長を歴任
1996年 フリーのゴルフジャーナリストとして独立